飲み会に対する重要性と世論の冷たさと
最近、主にネットでは、正義という刀を振り回すのが流行っている気がする。
誰かが事件を犯したらそれに対して単純に攻めたてたり、その人をフォローしてマウントとりたがったり、退屈な論議が繰り広げられている気がする。
個人的に重要なのは、その事象に対して正しいかどうか、そうでなければどういう思いがあるかどうかだと思うけれど、世の中は違うのかもしれない。
例えば、飲酒、今現在そんなに叩かれいるわけではないかもそれないけれど、推奨されているわけでもない気がする。
これは統計のとり方のマジックとかあるのだけれど、非難したい人にはかんけない。
さらに問題なのは、それをマスコミが安易に取り上げてしまいがちであることだと思う。
例えば、事件を起こした人が酔っ払っていたのかどうか、というのはすぐわかる。
だから酔っ払って事件を起こしたら、酔っ払いの事件として取り上げられ、酔っ払いを悪者にしやすい。
というか、悪者って作りやすい。
不平不満をいえばその対象か、言った人のどちらかを悪者にできるし、スキを見せればすぐに叩ける。
終いには中途半端な法律論まで出てくる。
至極当然なんだけど法律だって間違える。
そもそも時代によって変わること前提に作られてるいるのだから、 時代の価値観によって違えることだって起こりうる。
だから法律にも伸びしろがあるわけなのだけど、合法だから自分の行動が間違っていないというのは、やはり浅はかだと思う。
そんな中現在
煙草を始め酒などに、厳しいルールを課すのは全く無意味だと思う。
それよりもノム方たちを理解し許容する世の中のほうが発展すると思う。
ただ、ここで、クスリまだ許容するのかと言われて中中途半端に理解を示すのでなく、はっきり論理的に反対出来ることは重要だと思う。
ただ、限りなく許容私は酔っ払っている